信じる力

力と言えば、体力が分かりやすい。

精神力と言えば、その人の局面において現れてくるから分かる。

信じる力もその人の、思い方を

表現すればある程度分かる。

信じる力には洞察力が必要になる

つまり、見抜く力だ。


学問が良くできる人にはその知識を使って洞察力を働かせる事が

できる人とできない人がいる。

私は、妻を亡くした苦しみからは

脱出できたのかも知れない。

でも、哀しみと寂しさはまだまだある。

次元の違う世界を確認した経験が

あるから、あの世があることを

信じる事ができる。

経験によって信じる力が強くなっていた。

でも、科学者などの、俗に言う

頭の良い人などは、実験によって

何度も同じ結果がでなければ

信じない人が多いだろう。

確認できるものしか信じる事が

できないでいる。

信じると言う力が無いと言わざるを得ない。

学問が良くできて頭もいいのだが

信じると言う事ができないとは

悲しい事だ。

愛と言うものが実際に存在する事を信じる事ができるだろうか。

人の言葉の中に愛があると言う事

は何となく分かる。

でも愛そのものを、取り出して

見せることはできない。

確認できないものは信じられないとすれば、物理学者などは愛の

存在を認める事はできないだろう。

目に見る事のできるものを信じる事はたやすい事だ。

見る事のできないものを信じると

言う事は難しい事だ。

イエスキリストもジャンヌダルクもマザーテレサも目には見えない

ものを信じ、偉大なる業績をのこした。もちろん科学者のなかにも

見えないものを信じた人もいた。


しかし、頭はいいが愚か者としか言いようがない人もいる。

死別ブログの中にいる人は

愛多き人ばかりだ。

イエスは言うだろう。

「あなた方は私の側近くにいると」私は、ブログの中で極端に

苦しみ続けている人を救いたいのだが、私の言葉は彼に届かなくなってしまった。

どうか君よ耐えて耐えて、耐え抜いてくれ。

今日、私は妻と一緒に小貝川の

川沿いに行き独り寂しく昼飯の

おにぎりを食べた。

後ろに見える山は筑波山。

私は茨城県筑西市のトキ。