反省の必要性

人間は生きてゆく上において、

さまざまな、過ちを犯します。

ある時には、その過ちとは

具体的に他人を傷つけた事実として残ります。

共に生きている人間として、

他人を傷つけたまま、放置しておいてよいのでしょうか。

相手は木石ではないのです。

血のかよった人間なのです。

血のかよった人間が、あなたの

言葉によって傷つき、あなたの

行動によって害されているのです。

その人の気持ちを思いやる時

あなたは、「ああ、すまない事を

した」と言う感情が胸から

込み上げてはこないのでしょうか。

この「すまない事をした」と言う

思いが反省の気持ちの表れなのです。

あなたがたが仏神ではなく

生身の人間である以上、人生の

いたるところで、避けがたい

間違いと言うものをしでかすこともあります。

しかし、それは偶然起きた事では

なく、よくよく考えてみるならば

やはり自分自身の心と、主体的な

意思に基づく行為によって

生じた間違いなのです。

そうであるならば、自分が原因で

生じた事実によって他人を

傷つけたと言う結果が出ているのであるならば、その結果に対する

責任は、自分がとらなくて

いったい誰がとると言うので

しょうか。

人間に個性と言うものが与えられ

それぞれの人が独立して生きている以上、共に楽しく生き、幸福になっていくためには、他人の

気持ちになって、勇気をもって

自らの過ちをわびてゆくことが

必要ではないでしょうか。

本来人間はお互い仏の子であり

一体なのです。

他人と自分は別のように見えていますが、仏の生命体に根をもつと

言う意味で同根であり、

共に兄弟なのです。

他人を傷つけていると言うよりは

本当は自分自身を傷つけているのです。

ですから、反省とは、他人を傷つけたと見える現象によって

損なわれた自分自身の仏性、

傷ついている自分自身の生命体を

癒すことなのです。

自分自身の生命から流れ出した

血を拭うことなのです。


この文は一般の人は今回の人生で

見ることはあり得ない文章です。

内容的には人間を仏の子と言っています。

この言葉を明確に使う者とは

仏以外にあり得ないのです。


次回は反省の方法を書いてみようかな。

そして、こんな文章を書き込むのは、私自身の為であり写経のようなものですから、学びの再確認をしてるのです。