私が属する教団を試す。

何故試そうと思ったのか。それは、

自殺防止に触れているからだ。

その理由は教団の教えで理解はしているが

私は命の電話に救いを求めた事があったが

ぜんぜん意味なかった。

では、私が

信ずる教団はどう対応するのかを検証した。

電話に出たのは男性だった。

年齢は私と同じ。

男性は教団の職員だと言う。

いわゆる、出家僧だ。出家僧はかなりの

真理知識を必要とする。

この教団は当初入会には試験があった。

私はその試験に合格して会員となった訳だ。

私は初め会員である事を言わず、妻が亡くなった経緯を説明して、生きている理由も

意味もないのですと言った、これは本音だ。

職員さんは予想通りの答を言ってきた。

私は言った、それは理屈ですよと。

職員さんは、「あなたは執着していますね」と言った。

私は、それは当たり前でしょうと言った。

当教団では執着が引き起こす現実を説明して

自殺を防ごうとする。そして自殺者の末路を

説明する。

私は多少教団の、本は読んでますがと言い

(実はほとんど読んでいます千冊から二千冊)

執着がいけないのですか、しかし釈尊は

身内への愛はほとんどが執着であると言っていますよね、ならば人間は執着するものだと言う事が前提になっていますよね、だから

仏教では執着を断つ教えを説いているのですよね、ならば執着するのは当たり前でしようと言った。

更に、愛する人を亡くす苦しみはわかりますか、経験ありますかと…

職員さんは沈黙した。

経験はありませんと言った。

だからあなたの言っている事は理屈だと

言っているんですよと言った。

大切な人に順番をつけて、一番と二番が

あった場合、二番に対して一番は

次元が違うのですよとも言った。

この段階で職員さんは言葉を失った。

私はその職員さんに自殺防止の相談役は

むいてませんねと言った。

電話の向こうからカチカチ音がしていた。

職員さんの苛立ちを感じた。

私は思う、私ごときただの会員に真理知識で

論破される職員などいるのかと…

やはり、死別の苦しみ悲しみは体験者で

なければ分からないのだ。

そして、私は教団の会員であると言った。

私は思う、教団の教えの説明だけをもって

死を願う人に接するなかれ。

人間なんだ、理屈だけをもって説得できると

思うなかれ。

心の教えを学んでいる。

真理を学んでいる。にもかかわらず

職員であろうとなかろうと、分からない人

には、分からないのだ。

所詮他人事、教えには、

同苦同悲の心が仏の子の特質とされているではないか。

ならば、自殺しかねない人には自殺未遂の

人しかその心は見えない。

悲しみの経験を体験した職員さんは

私の心が見えていた。

奥さんが命の危険にさらされている病で

病院のベッドにいると言う職員さんには

私の心が見えていた。


死別とはなんと悲しいものなのだろうか。

でも、再会の時を思うと私の心は

ウキウキするのだ。


私の愛するエリミちゃん

どうか、いなくならないでね。