仕方がない。

今となっては仕方がない。

…で、すむのだろうか…

最愛の人とのを亡くした。

自分のいたらなさ…

悔恨の気持ち…

それは、その通り。

自分はいたらなかった…

この世での学問や学びでは、このでの

問題の答えはあり得ない。

しかし、真実の世界では、すでに

答えはだされているのだが…

最愛の人との別れは、仏教では

愛別離苦と言う。

今回の私の行動のなかで、妻に対しての

供養をした時の学びでは、愛別離苦は

定めであると言われた。

人々は何らかの理由でこの愛別離苦を体験する人がいる。

だが、理由もなく物事が自分に立ち現れてくるはずもないと考えるのが正解なのだ。

ならば、何ゆえに…

こんな苦しみを…

私は宗教者であるからその答えを…

悲しみは、苦しみは、それには理由がある。

その体験から何を学ぶか…

それ以外にない。

必ずその体験は自分に必要であり、体験が

無意味であったなら生きると言う事も無意味ではないだろうか。

何を信じているのだろうか、現代科学を信じていても、それで何になるのだ。

何故と言う事に、答えを出せない現代科学。

その科学が証明出来ないあの世。

そんな、現在の地球での科学を信じても

死後の世界など解明不可能である。

だから、私が言いたいのは、最愛の人には

必ず会えると言う事だ。

信じると言う行為は精神世界では必須であり

信じると言う事が全てであると言う事であり

信じると言う事を学ぶ為にこの世に生まれてきたのだと言う事が言える。

ならば、必ず会える。

しかし、耐えよ…

今の苦しみに。


その苦しみに耐えながら、信ずるんだ。


それが修行。

それがこん世の課題。

しかし、辛い…

悲しい…

苦しい…

それは…分かります。

私も同じ。

人類のほとんどが愛別離苦を体験している…

日々負けてもいいではないか…

涙を流してもいいではないか…

もう、自分は情けない人間であり、もっと愛すればよかった…

助けてあげられなかった自分…

ごめんね…

もっと最愛の人を理解し愛すればよかった…

でも、時すでに遅し…

許して…

そう、そんな自分…

それをこそ知る為に…

最愛の人が命をかけて教えてくれたんだと

思います。

ならば、残りの人生は…

それに答えよう…

それは、人生に負けてもいい…

しかし、一生懸命生きよう…

頑張ろう…

負けてもいい…自分を責めてしまってもいい…

頑張ろう…。

塩をふられたナメクジのような自分であっても、頑張ろう…

頑張ろう…

頑張ろう…