自由がゆえの悲しさ。

日本という国は自由度が高い国だ。

それはいい事だ。

思想は全世界的に自由ではかるが

一部制限する国もあるにはある。

しかし、それを表面に出さなければ自由である。ある国ではその

自由なる思想を表にだしたがゆえに、拘束される国もある。

日本と言う国はなんと住みやすい

国なのだろう。

私は宗教者であるから、布教誌

配布をしている、けっして

悪意はない。

妻が亡くなって、私が妻にしてあげられる事は、毎日のお茶だしと花の手入れとお菓子などを供えて

やる事くらいしかできない。

飾ってある花は、近くの花屋さんで買っていた。

ある時バイクでその花屋さんへ

布教誌を届けた、郵便受けがないので、直接手渡しした。

ヘルメット、サングラス、マスク姿では初めてだった。普段着では何度もその店には行っているが、常連客だとは分からないだろう。店の奥さんは内容が分からないので受け取りはしたが。

後日私が属する教団の映画のチラシを普段着で花を買うついでに

渡そうとしたら…

結構ですと言われた。

そして、言われた、

「こう言うものは自由ですよね」

って。

私は「はい、自由です」と

答えた。

奥さんは、「いりません」と

つき返してきた。

あきらかに気分を害してしまった

感じだった。

私は勘違いをしていたようだ。

花を扱う商売をしてる人は

心優しい人だろうと…

お愛想でも普通受けとるだろう

場面ではあると思う。

その時のその奥さんの人を

見下すような表情と感じられる

気性の荒らさ。

布教誌を渡す行為がそんに悪い

事なのだろうか…

勧誘しているわけでもなく

ただのチラシなのに。

なんと荒んだ心の持ち主なんだろうと感じた。

営業スマイルの奥に潜む真実の

姿を見た。

もう、ここには来れないな…

行けば嫌な気分にさせてしまうから…

そう思って花を買って帰って来た。

自由と言うものには責任が伴う。

さて、その責任をどうとるのか


今のところこの世を去って、

半分以上が地獄行きとなっていると当教団の霊査で判明している

状態なのだが。

そんな荒んだ心を穏やかな心に変えていく使命をもつのが宗教と

言うものなのだ。


ある所では

「悪いけど受け取れないよ

私は〇〇会のものだから」と

〇〇会としてはとても丁寧な

断りかたのできる人だった。

私は、断られても

「ありがとうございます」と

答える。

〇〇会ですと断わる人で二人目

だった、丁寧な断りかたのできる人。

ある人は、「うちは、そんなもの

いらないよ」

ある人は「どれ、見せてみろ」と

封筒から出して、中身をちらっと見て、「いらない」って

つき返してきた。

その目つきは悪人を見るめつき

だった。


何故人はそんな事で怒るのだろう…


そのてん外人さんはまったく逆なんだ、やはり外人さんは信仰を

もっているから、対応が違う

ある人は「なにこれ?」

「私、日本語よめない」

神様ですと言うと受け取ってくれた。


信仰と言うものは目には見る事が

できない神と言う存在を認める

行為であり、目に見えて確認できるものを信じる精神状態より

遥かに高度な精神状態なのです。


目に見えるものを信じる事は

容易いこと。

目に見えないものを信じる事が

許されている存在、それが

人間と言う生命体である事が

常識となる日はいつなのだ。


目に見えなくとも存在しているものはいくらでもあると言うことを知っているのに…

自由には責任が伴うと言う事を

忘れてはならないだろう。


いつもの場所で私自身の闘いの

疲れを癒している…

バックに見えるは、筑波山。

ここは茨城。

写真には私の労を労うかのように

空に、十字架が写っている。

天は我を見捨ててはいなかった…

と、都合よく思っている私だった。



これは小貝川と言って、数十年前

川の水が氾濫した場所なんだ。

周辺の民家は水没した。

私はその時どの道も水の氾濫で

通行止めとなっておりこの橋を

渡る時、水没していく民家を

見ていた。