沈没していく。

朝目を覚ます時、 また宮ちゃんのいない 苦しい一日が始まるのかと、 仕方なく起きることにする。

遺影の前で、 たまらず泣いた。

毎日毎日 私は 遺影の 前にいる。

いくら考えても

何をどうしても

宮ちゃんのいない現実が変わらない限り この心境は 続いていく。


水の中で 溺れる人が 水面から 顔を出し、 もがけばもがくほど、

水中に引きずり込まれる そのような 感じに似ている。


また振り出しに 戻ってしまったようだ。

どうすれば 、いいんだ。

それが、 分からない。


いつまで、 耐えればいいんだ。

いつまで、 耐え続けろというのだ。

この苦しみの連続の日々の中で

苦しみ続ける。

ずっと 生きてる限り この苦しみは

続くと言うのか。


スピ系の 私としては 苦しみというものは、 乗り越えるために

その人に試練として 与えられているものだと 理解はしている


いずれは乗り越えられるのだろう

ただその 乗り越え方が 問題なのだ


試練を乗り越えていくときに

惨めであっては ならないと。

その試練に対して 逃げ腰であっては ならないと。

私の 学ぶところによれば

そういうことになる。


いずれ人は死ぬ、 三途の川を渡る時、 人はこの世に対しての 全ての執着を捨て なければ、 三途の川は渡れないと言う。


なんとか三途の川を渡った あとに 待っているものは 今で言うところの 映画館だと言う。

そこは 観客のいる映画館。

そこで上映されるのは 自分の生まれてから死ぬまでの映像が映されると言う。

人に 知られたくない 内容も全て 映し出されると言う。

しかし 生きているうちに 充分その部分の反省をすれば、その部分は 免除されると聞いている。

スピ系の私はそれを信じている。

だからできるだけ 今までの出来事を 反省している。思い出せるもの 全てに対して 何度も何度も 反省している。

でも反省というのは 難しいものだ

どうしても ダメな自分を 責めてしまう という結果になってしまう。

それは 反省がうまくいってないということになる。

反省というのは 本来の自分である 光り輝く自分を 取り戻す行為であると 言われている。

反省の基準は 神の心 仏の心それが基準となる。

だから スピ系の私は 真理を学んでいる。

最愛の妻を亡くして 苦悩する自分

が、 情けなく その映像に 映し出されることになる。

勇気を持って 立ち向かっている 姿を 上映されたい。


でも ダメなんだ この 苦しみに

泣きながら のたうち回っている

以上 、情けない 自分が 映し出されても 仕方ない そう思う。

1日生きるのが やっとで 元気よく

明るく 生きるなんて できないよ。