礼拝堂とオーブ

妻を亡くしてつくづく思う。

命って素晴らしいと。

人間の中に命は宿っている。

それは誰もが認める事実。

人間に限らず生きるもの全てに

命が宿っている。

それも誰もが認める事実。

人が亡くなると、命が無くなったと言う。

命と言うものは、無くなるもの

なのか。

見えなくなっただけじゃないのか

あの風のように。

風は見えないけれど、吹くことに

よって木葉を揺らし、そこに

風がある事がわかる。

命は見えないけれど、人の身体に

宿る事で、そこに命がある事を

人は認める。見えない事をもって

無いと言うことにはならない。

私は礼拝堂が好きだ。

あの静寂さが好きだ。

じっとして心の波立ちを無くして

いくと、オーブが見えてくる。

1個、2個、3個と空中を飛んでいる

あれはいったい何なんだ。

あれは人の命なのだろう。

そう思う。

私は礼拝堂の静けさが好きだ。

次元の違う世界は確かにあった。

妻が亡くなって3ヵ月、妻の遺品、妻の髪の毛1本でさえ遺品として、持っている、妻の物、全て持っている。 私は霊となってあの世にいる事を確信している。何故か……

私は次元の違う世界があることを

確認したからです。確信ではなく

確認です。

それは、某宗教団体の講演会に行った時の事でした、講演が終わり

ふっと気がつくと私の手のひらに

金箔がありました、俗に言うところの金粉現象です。

私の側にいた妻の手のひらには2㎜位の金の粒がありました、妻の隣にいた女性のスカートには、かなりの量の金箔がありました。

この金箔と金の粒は時間とともに消えてなくなりました。次元の違う世界があると言う事と次元の違う世界の誰かが意図してこのような現象を見せたのです。次元の違う世界を私はあの世であると、思うのです。

戦争と生まれ変わり。

人は、ほとんどと言っていいほど

いずれは、最愛の人と、別れなければならない、と言う経験をする

生まれ変わりは

平均200年~300年に1度と言われている。

生まれ変わるそのたびに、最愛の人を亡くす。

そこには、悲しみ、悲哀がある。

悲しみを知らない人は、人の悲しみや苦しみなど分からないと言う

何度も生まれ変わり、何度も

最愛の人を亡くす経験をする時

やっと人は、優しさや思いやりの

心、つまり愛と言うものを自分の

ものにする事ができるのではないのか。

愛と言うものは目には見えない

けれど。愛と言うものの存在を

誰もが認めている。

神は愛なり・と言う。愛の存在を認めるならば、神の存在を認めている事になる。最愛の人を亡くす

事は強烈な苦しみとなる。

戦争で亡くなる人は、誰かにとって、最愛の人なんだ。

戦争が無くなる世界が出来上がる

まで、人は生まれ変わりの度に

最愛の人を亡くす、強烈な苦しみ

を、体験しなければならないのか。まず戦争を無くしていく事が

死別の苦しみを無くしていく為の

第一歩かもしれない。