命って不思議だな。閲覧注意!

正月に買ったバラの花

二本セットで買ったバラの花

花瓶2つに分けて飾った。

他の花達と一緒に飾った。

どれくらい時間が過ぎたのだろう

2つのうちの一本がうなだれていた。

よく見ると切り口が水に届いていない、急いで水につけてやった。

でも、もう遅かったようだ。

生き返らない。

切り花の命。

そうか、飾ってある切り花に

命があるんだ。

当たり前の事だが改めて命が

あるものと無いものの違いを

感じた。

確かに命が有るものと無いもの

には違いがある。

生きるものには命が有る。

死んだものには命は無い。


だから、命っていうものは

あるんだよ。

有るのにもかかわらず命そのものを見た人はいない。


見えないけどあるんだよ。

こんな単純な事さえ分からない

人が亡くなる時、それを死と言う

死ぬ前までは命が有ったと言う。


ならばその時、命が見えたか。

動くから命があると言うのか。

意思の疎通ができるから命が

有ると言うのか。


今ではロボットでも意思の簡単な疎通くらいはできそうじゃないか。

でも意思の疎通ができ動くことができても、そこに命は無いと言う

事など誰でも分かる。


命は目には見えない。

だけど有ると誰もが知っている。


そこの判断が明暗を決める

ポイントとなる。

素直に認めればいいものを。

大半の人間はそれを認める事が

出来ないでいる。人類史最高の

賢者、釈尊の教えを認めない。

釈尊を超える知者なのか。

そんな人間いるのか?


釈尊はあの世はあると言っているではないか。

天国地獄もあると言っているではないか。


それを知らない認めないで済むなら宗教の存在する余地はない。


ならば何故イエスは処刑されるのを知りながら捕らえられたんだ。


ならば何故ソクラテスは毒杯と知りつつ飲んだのだ。

ならば何故、ジャンヌダルクは

火炙りの刑になったのだ。

マニ教の開祖は処刑され生皮を剥がされたのか。

ならば何故キリストの弟子達は

処刑されたのか。

ならば何故釈迦族の弟子達は

釈迦族であると言えば処刑さる事を知りながら釈迦であると言って

処刑されたのか。


人間この世を去りただで済むと

思う事なかれ、正しさの基準から外れた分だけの反省は迫られる

覚悟をしなければならない。

正しさの基準とは仏教では

八正道。キリスト教ては愛

日本神道では清らかさである。

無神論国家日本。

唯物論者の末路の惨めさよ。


真理と言うものがある。

それさえ知らない。たとえ

それを知っても自分のものとするには相当な年月がかかるだろう。


死んだあと天国に行きたい?

イエスは言った、金持ちは天国に行けるでしょうかと聞かれて、

イエスはこう、答えた

「ラクダが針の穴を通るより

難しい」と。更に「幼子のような心の者しか天国には行けない。」「隣人を愛せよ、裁かれたくなくば人を裁くな。」

真理と言うものがある。

生きているうちにそれを知らずば

死後知る事は非常に難しい。

あの世で知る事が出来るなら。

わざわざこの苦しみ多いこの世と言う世界にうまれる必要など

ない。

次回は人間の末路について

語ってみるとしよう。

これが命を失ったバラの花。

その他は元気です。

あなたに、命が見えますか。